2008/12/6(土)
「ヒカルの碁」のアニメを見た。
「ヒカルの碁」が以前大ブームになったことは知ってたけど作品に触れる機会がなかった。
コミックスを買うとまた本棚がいっぱいになっちゃうし、まずはかさばらない動画をサイトで視聴。
物語そのものもとても魅力的でおもしろく、心情描写が丁寧。もっと早く観ておくんだった、と思った。
道を極めるために競うべき、魂から共鳴しあう相手の渇望、
相手の才能への憧憬、
ふさわしい存在に到達しない自分/相手への苛立ち。
「ヒカルの碁」の中学生男子らの純粋さは痛々しいほどで、少し角度を変えれば戦場の愛のドラマだ。
これまでボーイズラブというのがどうもぴんとこなかったけど、なるほど、そういうふうに作り変えたくなる向きもわかるなあ。
中国の武侠ドラマにはたびたび「男装の麗人」が登場するようで、これは、
・男女が自由に出会う場のなかった時代の恋愛をつくるための前提条件
・男性中心社会で女性が活躍する場の設定
・おとこくさいドラマに花を添えるため
と思っていたのだが、
「ヒカルの碁」以降、見方を改めた。
「武侠」は徹頭徹尾運命共同体としての、たいていは男同士の物語。
ともに正義を貫き、ともに道を極める。
熱情は純愛に昇華される。
「こいつが女だったらなあ」「おれが女だったら・・・」
と(作中人物とは限らず誰かが心の底で)思った途端に
「じつは・・・」と華麗な素顔が晒される。
「道理でおれとおまえが惹かれあったはずだ!」
その後は「男女のラブストーリー」。
「ヒカルの碁」といった少年漫画は男子同士で物語を描ききり、「こいつが女だったら」「二人が恋愛・・・」については奔放な読者に引導を渡す。
武侠劇は一見「男女の愛」を描いているようでいて、「じつはこいつが女で・・・」という妄想を「男装の麗人」という暗器を使って本編で展開する。「男同士の愛」を描くために、「男女」を演じさせ、そのために「女」に「男」を装わせているのではないか。
命張るまでの道なら男同士でも男女でもなんだっていいんじゃない、というところ。
倒錯しているのは「男装の麗人」ではない。
「不健全」「健全」とはなんなのでしょうね。
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2 年前